〜追 憶〜 『とってつ』栃尾鉄道 [越後交通栃尾線 |
「栃鉄廃線」あれから30年、月日の経つのは早いものである。 且つて”とってつ”の名で咲き誇っていた栃尾鉄道、地域住民の足であり、町の顔であった。わがふるさとを語るとき、山、川、そして「とってつ」なのです。 その原点でもあった往年の名物電車が田園地帯を走る、、、、思わず懐かしさがこみあげて来ます。 大正4年開業からか今年(平成15年)で88年、そして廃線(昭和48年4月)から30年が経過、平成15年、記念すべき30年に、くしくも「思い出のページ」を発信することとなりました。 栃尾、長岡間の大動脈として、又花のお山(悠久山)へとシーズンには10分ヘッドの運転もされ活躍していました。 今日のような車社会、過疎化になろうとは、当時は、思いもしなかったことです。 昭和48年4月10日越後交通栃尾線(旧栃尾電鉄)長岡〜栃尾間、長岡〜悠久山線廃線 ローカル色豊かな軽便鉄道も昭和50(1975)3月31日をもって全線廃止されました。 | |
栃尾線の路線は、栃尾〜上見附を経由して信越線の長岡駅まで達し、さらに桜の名所として有名な悠久山まで延びていました。 営業距離26.4km軌間762mmの電化された 軽便鉄道であった。 昭和38年豪雪、1/23より降り積もった雪は3.99mと未曾有の雪となり1/24〜2/11まで18日間も全面運休。 自衛隊まで出動しての町あげて総力を結集して人海戦術による除雪作業であった当時は、電車が最後の輸送機関であった。18日振りに復旧し電車が栃尾駅に入った時には、住民のバンザイ、バンザイの連呼だったという。 | |
”あゆみ” 開業時(大正4年)は、栃尾鉄道として栃尾、長岡間を運行。 その後昭和31年に、栃尾電鉄と改称、昭和35年(1960)10月1日には、長岡鉄道などと合併して越後交通栃尾線となった。 晩年、この会社の社長の任に就いたのは、故田中角栄氏である。 | |
栃尾鉄道の悠久山乗入れにより、悠久山は公園となり、野球場や遊園地、スキー場もあり、花見のシーズンはもちろん、週末ともなると行楽客が多く利用していた。 悠久山の花見客の快速電車を10分ヘッドで運転したりと、斬新な営業展開を行って話題を提供していた。 モハ211自社工場で製造された最後の電車 | |
上見附駅舎のあとである、現在、バスの駐在所として改造して利用されているが、手前がホームの跡であり、近い将来、撤去される予定 平成15年秋撤去され、住宅地に分譲された。 | |
上見附駅ホーム(ホハ11) ネコ・パブリッシング社 軽便追想より転載 | |
モハ211 昭和48年4月10日栃尾駅、ほたるの 光の合唱に送られて、この日を最後に ”とってつ”電車は、消えていった。 | |
下長岡電車庫 大正14年(1425)には、わが国の地方鉄道最初のガソリン動車を採用している。 電化後昭和31年は、草軽電鉄から電気機関車と電車を譲り受けた。 昭和27年10月モハ209自社工場で製造された カルダン駆動とつり掛け駆動の2方式を採用。 | |
機関車顔負けの出力を持つ。 昭和29年モハ210は、外板にジュラルミンを使用 技術の最先端を切ったような車両になった。 昭和32年モハ212(全長13600mm)全国の軽便電車の最長格 昭和34年モハ212(スイス風モダンな外観となる) 左画は、クハ102 |
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