〜旅愁の響き〜

         『長 岡 鉄 道』

                [越後交通長岡線]

  信越線の来迎寺(三島郡越路町)より信濃川左岸沿いに下流に向かって、西長岡(長岡市大島)に達し、そこからスイッチバックで方向を変え、再び信濃川に沿って進み与板を通り大河津(現:寺泊)で越後線(国鉄線)と再び接続し、そこから更に日本海側の寺泊まで達する24.2q軌間1,067mmの電化ローカル線であった。

 長岡鉄道の創立は、早く、大正3年3月3日中貫鉄道鰍ニして誕生した。同年8月7日長岡鉄道株式会社として名称変更。大正4年10月7日与板〜寺泊間、大正5年1月5日西長岡〜与板間運行開始、大正10年11月18日西長岡〜来迎寺間運行開始

昭和25年10月に故田中角栄氏が社長に就任、積極的な経営手腕により、
昭和26年12月1日には、西長岡〜寺泊間31.6kmの電化の完成、ついで
昭和27年10月1日には、来迎寺線7.6kmの電化により全線電化39.2kmが完成した。
 又、昭和35年10月1日には、長岡鉄道梶A中越自動車梶A栃尾電鉄鰍フ三社の対等合併が実現、越後交通鰍ニして発足、中越地域全域の交通網の一本化により、飛躍的に発展、今日に至っている。

 モータリゼーションと過疎化の影響で寺泊〜大河津線が昭和48年(1973)4月に廃止、次いで大河津〜西長岡間が昭和50年(1975年)3月一杯で廃止された。
 しかし残った西長岡〜来迎寺線は、貨物営業のみ路線として残り、平成7年(1995)3月31日まで貨物営業を行っていた。
モハ1400

 昭和48年4月15日寺泊駅 
さよなら電車”また逢う日まで”に送られてこの日を最後に最終電車は、その姿を消した。
モハ5000
身延鉄道からの譲受車両




モハ1400

小田急からの譲受車両



写真は、朝日新聞社:世界の鉄道より転載
大正4年 本社社屋

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